シグネットリングには、古くから個人や家系、組織の名前や頭文字などを組み合わせて一つの象徴として表した「モノグラム」が彫刻されてきました(『モノグラムの手彫り彫刻』)。そして、モノグラムと並び、シグネットリングの歴史に深く関わってきたのが”紋章”です。
モノグラムもそうですが、紋章は所有者の存在を示すための更なる厳格な記号の一つであり、KUBUSではそうした紋章が持つ性格を踏まえた上で、紋章の作成とシグネットリングへの手彫り彫刻を行っています。
本ページでは紋章がどのように生まれ、どのような意味を担ってきたのかを簡潔に巡りながら、KUBUSにおける紋章彫りの考え方と制作の流れについてご紹介します。
Contents
紋章の意義
紋章とは、特定の個人や家系等を識別し、その存在や由来、価値観等を象徴的に示すために生まれた記号です。紋章は単なる装飾ではなく、所有者の署名として機能してきました。社会的な責任や誇り、あるいは生き方そのものを静かに、しかし明確に示す造形言語であり芸術です。
紋章の歴史
紋章の起源については諸説ありますが、一般的には12世紀半ば頃に低地地方(ヨーロッパ大陸北西部の地域やスコットランドの南部地方の地域を表す呼称)やフランス周辺の北ヨーロッパの辺りに現れたと考えられています。
戦士たちが甲冑で全身を覆うようになった時代において、戦闘中に敵と味方を識別する必要性から、武具に個別の印が描かれるようになりました。
やがてそうした印が世代を超えて受け継がれ、個人の所属等を表すと共に家系も表す紋章として発展していきます。こうして紋章は、軍事的・実用的な役割を超えて、社会的・文化的な意味を帯びるものとなっていきました。
紋章官の誕生
15世紀までには、紋章官(herald)と呼ばれる専門家が活動していたと言われ、紋章の記録や管理等を担うようになります。彼らは当時ヨーロッパを股にかけて開催されていたトーナメント(馬上槍試合)において、参加者たちの紋章を識別するために紋章の所有状況をまとめた巻物を作成したり、また、貴族の家中の一員となり、主人の代理としてトーナメントや騎士道に関する様々な情報を集めていたと考えられています。
今日においては、個人や団体に紋章を認可する役割の他に、国王の戴冠式や議会の開会などのような国家的な重要行事において、紋章院総裁を補助したり、助言を与えたりしています。
下の映像はチャールズ3世の戴冠式の様子。動画の55秒あたりに映る、紋章で飾られた礼服を着用しているのが紋章官です。
紋章官を擁する紋章院
紋章の社会的・公的性格が強まる中で、それを統括・管理する組織として1484年にリチャード3世によって「紋章院(College of Arms)」がロンドンに創設されました。紋章院では紋章の許認可を始めとする管理に関わる全てを担当するとともに、英国王の戴冠式などの国家的儀式をも司る王室所属の機関です。
今日ではほどんどの国から紋章に関する公的な機関は姿を消しましたが、このロンドンに本拠を置く紋章院は現在でも存続しています。
KUBUS紋章院
ここまで簡単にではありますが、紋章の歴史的・文化的背景について概観してきました。ここからはそれを踏まえてKUBUSにおける紋章の取り扱い方について述べていきます。
『シグネットリングの歴史』のページでも紹介をしているように、シグネットリングは紀元前にまで遡る起源を持ち、紋章と同様に極めて長い歴史を有しています。とりわけ、紋章の文化が成熟した時代とシグネットリングが最も重要な役割を果たした時代は重なっており、両者は歴史的にも機能的にも切り離すことのできない関係にあります。
したがって、シグネットリングを専門に制作しているKUBUSにおいて、紋章の作成や彫刻を行うことは必然的な帰結であると言えます。
「signet」の語源であるラテン語のsignumは「印、記号」を意味する言葉であり、「signature(署名)」もまた同じsignumを語源に持ちます。KUBUSではこうした背景を踏まえ、シグネットリングを単なる装飾品ではなく、着用者を象徴する「署名の指輪」として捉えています。
故にシグネットリングへ刻み込まれる紋章は「単に形式として整っているのではなく、明確な意味や物語を内包し、独創性を備え、所有者の存在を象徴するもの」でなければなりません。その実現のためには、高度な彫刻技術だけでなく、紋章学への理解と歴史的背景への敬意が不可欠であるとKUBUSでは考えています。
そうした制作姿勢を明確にするために、KUBUSにおける紋章の作成や彫刻を始めとする取り組みを「KUBUS紋章院」と名付けました。
※KUBUS紋章院は国家的な授与機関や公的な登録制度を意味するものではありません。紋章を一時的な装飾としてではなく、意味を伴う象徴として扱うためにKUBUSが独自に設けた取り組みです。
KUBUS紋章院の役割
- 紋章の作成・発行
- シグネットリングの制作・作成した紋章の手彫り
⒈紋章の作成・発行
ご依頼者個人の思想や背景、価値観をもとに独自の紋章を作成します。そして、その紋章の構造や意味を記載した資料を紋章状として発行いたします(紋章状はシグネットリングが仕上がった際に一緒にお届けします)。
そして、ご依頼者がいつでもご自身の紋章に込められた意味を振り返ることができるよう、その紋章状はHP内の『KUBUS College of Arms』にも掲載します。ここでは各紋章ごとにパスワードをかけて保護し、それをご存知の方とKUBUSのみが閲覧可能です。パスワードは紋章状発行時にお知らせいたします。私、KUBUS斎藤の紋章については例としてパスワードを公開し、どなたでも閲覧できるようにしております。よろしければご覧ください。(「pass:kubuscoa」)



その紋章を持つ方のパートナーやお子さんから将来ご依頼を頂いた際には、ご希望に応じてその紋章をもとにご家族の紋章を作成させていただくことも可能です。
⒉シグネットリングの制作・作成した紋章の手彫り
作成・発行した紋章を刻むシグネットリング本体もご依頼毎に制作します。そして、そこへ作成した紋章を手彫りによって刻み込みます(KUBUSで用いている手彫りの彫刻技法についてはこちらのページをご覧ください『KUBUSの手彫り彫刻技法』)。
彫刻は図案をそのまま転写する作業ではなく、金属という特性を踏まえながら、図案として描いた紋章の構造や意味を更に発展させるための立体的な彫刻表現です。紋章の作成もシグネットリング本体の造型作業も全て、この彫刻に向かって行われます。
こうして仕上がったシグネットリングは着用者の署名として機能し、身に着けられる彫刻作品となります。KUBUSのシグネットリングは「見るための美術」ではなく「生きるための象徴」です。
紋章の作成費用(手彫り施工料を含む)
上記の⒈と⒉で行う「紋章の作成・発行+シグネットリングへの手彫り施工料」は、その紋章の複雑さ等によって異なります。そのため、ここでは目安となる紋章デザインを例にとってご案内します。正確な金額につきましては、お問い合わせ後にご希望を伺ったうえで見積書を発行しお伝えいたします。
※下記の価格は、シグネットリング本体の価格を含まない「紋章の作成・発行+シグネットリングへの手彫り施工料」の目安です。
クレスト・・・¥200,000+tax〜
紋章はその紋章の使用者個人を表すものであるのに対して、クレスト(crest)は家族や同一家系に共通して用いられる、いわば日本の家紋のような性格を持ちます。そうした本来のクレストの役割としてだけでなく、盾形紋章や大紋章のような格式ばったものよりも動物や植物等のモチーフがお好みの場合にはクレストをお選びください。
盾形紋章・・・¥250,000+tax〜
盾のみの紋章(小紋章)や盾に冠等のアクセサリーを加えたもののうちあくまでもデザインの大部分を盾が占める紋章(中紋章)を当店では盾形紋章としています。紋章の中で最も重要な役割を担う盾を目立たせたい場合や、シンプルで静的な印象のデザインがお好みの場合には盾形紋章をお選びください。
大紋章・・・¥350,000+tax〜
先述の盾形紋章(小紋章や中紋章)へ更に盾持ち(サポーター)やモットー等のアクセサリーを加えた紋章で、アチーヴメント(achievement)とも呼ばれます。紋章の中で最も装飾的で華やかなのが特徴です。
ご依頼の流れ
- 打ち合わせ
- お見積り・ご依頼確定
- 紋章の作成・提案、シグネットリング本体の制作
- 手彫り彫刻
- 完成・紋章状の発行・お届け
⒈打ち合わせ
ご希望のシグネットリングの形状やフェイスサイズ(印台サイズ)、号数、素材、そして紋章に込めたい意味やご希望のデザインの方向性について打ち合わせを行います。
⒉お見積り・ご依頼確定
⒈で伺ったご希望をもとに見積書を発行いたします。その内容にご了承いただけた後、請求書(内金として5割、もしくは全額)をお送りし、そのお支払いの確認が取れ次第ご依頼確定となります。
⒊紋章の作成・提案、シグネットリング本体の制作
紋章学も参考にしながら独自の紋章を制作いたします。シグネットリングへ彫刻を行う前に紋章図案のご提案とそこへ込めた意味について説明をいたします。
⒋手彫り彫刻
決定した紋章をシグネットリングへ手彫りで彫刻します。
⒌完成・紋章状の発行・お届け
シグネットリングが仕上がりましたら、紋章状と共にお届けします。発行した紋章状はHP内の『KUBUS College of Arms』にも掲載します。(ご依頼確定時に内金のお支払いをお選びいただいた場合は、完成時に残金をお支払いいただきます。)
基本的なご依頼の流れはモノグラムの場合と同様のため、『How to Order』ページも併せてご覧ください。
<お届けまでの期間>
モノグラムを伴うシグネットリングのご依頼の場合であっても、『How to Order』にあるように、お届けまでの明確な期間を設けることが難しく、”あくまでも目安”として設定しております。これはご依頼毎に独自のモノグラムデザインを作成し、手彫り彫刻しているためです。
それに対して、紋章の作成・発行及び手彫り彫刻を行うシグネットリングに関しては、それよりも更に制作工程が複雑になるため、目安の期間すら設けることが困難です。
紋章の作成には、紋章へと込める物語の構想やそれを表現するためのモチーフ等の選定、それと同時に紋章学上の問題はないかの検討も行います。
ただし、紋章学上のルールに完全に則ることを目的としている訳ではありません。それでは形式が先行した表現となってしまい、独自性や象徴性が損なわれてしまうからです。そのため、紋章としての説得力を担保するために紋章学も参照しつつ、独自性や象徴性を重視したデザインの作成を行います。
そうして作成した紋章をシグネットリングの印台部分という縦横約1cm程度の空間で立体的に表現しなければなりません。それにはモノグラムの彫刻と比べて更に高度な彫刻技術と集中力を必要とします。
以上の理由から、紋章を伴うシグネットリングにつきましては、お届けまでの期間について具体的な目安を設けるのが難しいということをご理解のうえご依頼いただければ幸いです。
最後に
KUBUSではご依頼者の想いや価値観を伺いますが、それらは制作のための材料であり、最終的な解釈と表現は制作者が引き受けるものだと考えています。その解釈を誤らないよう打ち合わせもじっくりと行います。
紋章やシグネットリングの制作には深い思考や感受性、発想力、そして一つの象徴としてまとめる判断力が求められます。それは断片的な選択の積み重ねではなく、全体の構造と意味を見渡しながら進めていく連続した表現行為です。
ご依頼者から託された想いや背景を出発点として、その最終的な表現については制作者としての判断に委ねていただくことを前提にご依頼を承っています。もちろん、お好みに合わないものを一方的に制作することは決してありませんが、ある程度制作者の感性に委ねていただく必要があり、それが結果的に良い作品を生み出すことに繋がると考えています。
当店の制作スタイルは効率的な方法ではないかもしれません。しかし、着用者を象徴する”署名の指輪”としての意味を正しく結実させるためにこうした方法を採っています。
KUBUSのシグネットリングは、「見るための美術」ではなく「生きるための象徴」です。
想いを託していただき、そして、それを形にする役割をKUBUSが引き受けます。
【参考文献】
- スティーヴン・スレイター(著),朝治啓三(監修,翻訳).『【図説】紋章学事典』.創元社,2019
- 秦野啓(著),福地貴子(イラスト).『図解 紋章(F-Files No.038)』.新紀元社,2013
- 森護(著).『西洋の紋章とデザイン』.ダヴィッド社,1982



















